フィレンツェにおけるメディチ家の黄金期は、ロレンツォの死によってかげりをみせる。
彼の4人の息子のうち、長男のピエロ(1472-1503年)がメディチ家を継いだ。しかし彼は、自らの失政と反メディチ派の唱える共和制運動でフィレンツェを追放されてしまう。次男は教皇レオ10世となったジョヴァンニ(1475-1521年)。彼は1512年にフィレンツェに攻め込み、ピエロの遺児ロレンツォ2世(1492-1519年)とともにフィレンツェにおけるメディチ家の復権を果たす。三男のジュリアーノ(1479-1516年)はフランスの公爵家の娘と結婚し、フランス貴族の公位を授かった。最後はロレンツォの弟ジュリアーノの遺児ジュリオ(1479-1534年)。ロレンツォの養子となっていた彼は、のちに教皇クレメンス7世となった。
ピエロの追放によってフィレンツェ共和国は一度解体されるが、メディチ家が復権すると1527年に再興された。
1532年には、教皇クレメンス7世の子でロレンツォ2世の養子アレッサンドロ(1510-1537年)が、舅にあたる神聖ローマ皇帝カール5世によってフィレンツェ公に任命される。この時点で、メディチ家は正式にフィレンツェの公(世襲制の領主)となった。また、フィレンツェも共和国から公国になった。
1537年にアレッサンドロが暗殺されたため、フィレンツェ公はメディチ家の傍系コジモ1世(1519-1574年)が継いだ。コジモ1世はトスカーナ地方を統一し、1569年にはトスカーナ大公国を興して大公となった。なお、トスカーナ大公国は1737年まで存続する。
ちなみに、コジモ1世はゲーム中にも登場するカテリーナ・スフォルツァの孫にあたり、さらにロレンツォの曾孫でもある。