Assassin's Creed 3 アサシン クリードⅢ
1492年のコロンブスによる新大陸“ 発見”以降、北米大陸に最初に定住したヨーロッパ人は、イギリス人であった。はじめは慣れない新大陸の環境に適応できず、また先住民インディアンとの対立もあって、入植はうまく進まなかった。しかし、17世紀になって清教徒(ピューリタン)たちが新大陸へと渡るようになると、徐々に植民市が建設されるようになっていく。
清教徒はイギリス国教会の一派だ。イギリス国教会の改革を訴えたが、国王チャールズ1世はこれを退け、清教徒を弾圧するようになっていた。そのため清教徒たちは、未だ見ぬ新大陸に「理想のキリスト教社会を築こう」と志して大西洋を渡っていったのである。ヨーロッパ社会で暗躍していたテンプル騎士団が何を求めて新大陸に進出したのかは定かではない。しかし、1312年に公式に解散させられて以来、歴史の表舞台に出ることがなかったテンプル騎士団にとっても、ヨーロッパ権力の束縛を受けない新大陸は魅力的な場所であったに違いない。やがてアメリカ東海岸には13の植民州が誕生した。
18世紀、イギリスはフランスとの大西洋における覇権争いに勝利し、のちの「大英帝国」の礎を築く。しかし、戦費は莫大に膨れあがっていた。
その負債を賄うために、イギリス本国はアメリカ植民地にさまざまな税金(印紙法、タウンゼント諸法、茶法など)を課したのである。これにより「ボストンの虐殺事件」で反発的になっていた植民地人をさらに刺激してしまう。そして1773年12月16日政治家サミュエル・アダムスにより一つの計画が実行される。植民地側の急進派はインディアンの姿に扮装すると、ボストン港に停泊中のイギリス商船に潜入して、イギリス東インド会社の紅茶箱を海に投げ捨ててしまったのだ(ボストン茶会事件)。
ここに到り、イギリスと大陸側の対立は不可避なものとなった。かくしてアメリカ独立戦争が幕を開けたのである。
1770年3月、ボストン港ではイギリス兵によって
植民地人が殺害される事件が起きた(ボストンの虐殺)。そのため植民地側の世論は、イギリス本国の支配に反発的になっていた。そのような状況でイギリス東インド会社に茶の独占販売権が付与されたせいで、植民地貿易が脅かされる不安が生じ、茶会事件へとつながっていく。
当時のイギリス議会では、植民地の代表者は許可されていなかった。植民地側からすれば、「口は出せないが税金は課せられる」状況だ。そこで植民地側は「代表なくして課税なし」をスローガンとし、イギリス議会に抵抗の意を示した。このスローガンは、独立戦争の最中にも用いられた。
ボストンの政治家。印紙税などのイギリスの植民地政策に対し、「大陸側の権利を侵害している」として抵抗。ボストン茶会事件を組織した。アメリカ独立革命において、指導的な立場にあった人物である。本作においても、ボストン茶会事件に関与する。
「代表なくして課税なし」の言葉に代表されるように、はじめ植民地側は本国イギリス人と同等の権利を要求したにすぎない。あくまで「イギリス人としての権利主張」であった。ところが、1776年1月に『コモンセンス』が出版されると、植民地側の世論は大きく「独立」へと傾く。『コモンセンス』はトマス・ペインが著した政治パンフレットだ。彼は、植民地の権利を守らないイギリス支配からの脱却(=独立)を訴えた。ジョージ・ワシントンも『コモンセンス』を読んで独立支持派になったというから、その影響力は絶大であった。